因果の巡り合わせによって

全休さんの、今日のブログ
私へのメッセージと受け止めました。
有難うございました。

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だだ因果のめぐる相なり

  二九
  ずいりん庵に仰せられ候き。
  まもるによりて、いきもし、死するにもあらず。
  だだ因果のめぐる相なり。
  ずいりんあんも、さにて候、と申されけり。

  〈意訳〉
  蓮如上人が瑞林庵におっしゃいました。
  「看病をしたから病の人の命が助かり、
  看病が不十分であったから死ぬわけではない。
  ただそれは、因果の巡り合わせによって
  現れたすがたなのである」と。
  それを聞いて、瑞林庵も、
  「そのとおりでございます」と申されました。

  (大谷暢順著『蓮如上人・空善聞書』72ページ)


 昨日いた人が今日はいない。
思えば人の命というも夢か幻のようです。
見送る人も明日は見送られる人となるのです。
命は朝日の前の露のようにはかないが、
短い人生をわたしたちはなんのために使っているのだろうか。
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「娘を助けてやれなかった・・・」と力なくうなだれるばかりですが、
その責任を自分が取ろうとするのは、
仏さまに対しておこがましいことでした。
自分の行為の結果については、
仏さまにすべての責任を背負っていただけば、
母親に抱かれて眠る赤ん坊のように安心できるのですね。


郁代が私の娘として生まれてくれたことが、
私の責任でなかったことを思えば、よくよくうなずけることでした。
なぜなら・・・
人付き合いの苦手な私に、
誰からも好かれる郁代が生まれるわけがありません。


短い一生を終える時の最期の言葉、
「おかあさん、これまで完璧やったわ。
いつも必要な時に、必要な物やことがすぐに用意されていたもの」
「生んでくれてありがとう」
は、仏さまの言葉でした。


辛く、動けない体で、
「ありがとう」を伝えるお別れの旅を続けたこと、
仏様の姿でした。