「親鸞さんがさとられた」

100年以上前に植えられた、市内一大きなモクレンが満開です。
兼六園近くの教会の庭に咲いていて、多くの人が観に訪れていました。


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かっこちゃん(山元加津子さん)の著書は、
ずっと前から家の中にはいつも置いてあって、
「さびしい時は心のかぜです」なども、郁代は読んでいたと思います。
でも、その後八年間もオーストラリアで暮らしていたのです。


郁代が亡くなった時、
「本当のことだから」山元加津子著・三五館)が部屋に遺されていた時はとてもびっくりしました。
病気になってから発売されたもので、私はまだ知らなかった本でした。


「本当のことだから」
第一章  大きな力って何だろう
     必要だから“そこにある”  (P16)

 
には、こんなことが書かれていました。


・・・・・
ある日のこと、お寺で講演する機会がありました。
主催者の方が
「有名なえらいお坊さんが今日は山元さんの話を聞きに来て、
二時間ほど山元さんとふたりで過ごすことになります。
せっかくの機会だから、どんなことでもおたずねなさい」
と言うのです。
そのお坊さんは、いろんなお話を聞かせてくれました。
私との会話の中で、そのお坊さんは
親鸞さんがさとられた」
と言いました。


きっとだれもが知っているだろうことも、私は少しも知らなくて、
「さとるってどういうことでしょうか?」
「『なむあみだぶつ』ってどういう意味でしょうか?」
とたずねました。


お坊さんはそんな私を笑ったりもせずに、
おだやかなにていねいに教えてくれました。


「どういうことを“さとられた”のかというと、
どんなことも、なるようになっているということです。
偶然というものはなく、いつも起こるべくして起き、
出会うべくして出会うということです」
と言いました。


それから、
「“なむあみだぶつ”とは、人がむなしく生きなくてすむように
“もの”も“こと”も“ひと”も与えられるようにまわりにあらわれて、
出会うことができるということです。
まわりにある“もの”も“こと”も“ひと”も、
みんなその人に必要だからそこにあるということです」


「じゃあ、よくお年寄りが“おかげさまで”っておっしゃるのは、
そういうことなのですか?」


「そうです。つらくて、悲しいと思うことすら、そうです」


私、そのお話を聞きながら、すごく不思議な感じがしました。
お坊さんが言っていることは、
いつも大ちゃんや、学校の子供たちが教えてくれていることと同じだと思ったからです。
そして、さとりとか南無阿弥陀仏って、
もっともっとむずかしいことなのかなという気がしていたからです。


ところで、えらいお坊さんの言ったことと、仏様の教えというものと、
大ちゃんや子供たちが言うことが同じなのはどうしてでしょう。


お坊さんに、
「昔の人は、どうしてそんな大切なことに気がつけたのですか?」
とたずねたら、お坊さんはまた優しくほほえんで
「それは、本当のことだからです」
と言いました。


本当のことだから、
昔の人は知っていて、親鸞さんも知っていて、
大ちゃんや子供たちも知っている・・・・・。


本当のことだから・・・・・。


頭の中で「本当のことだから」という言葉がぐるぐる渦をまいて、
しばらく離れませんでした。
・・・・・



郁代の最期の言葉を思い出しました。


「おかあさん、これまで完璧やったわ。
いつも必要な時に、必要な物やことがすぐに用意されていたもの」
            「あなたにあえてよかった」より