一番書きたかったこと
『やさしい家族、すばらしい家族がいたということに気づいたよ。
病気になった辛さより、そのことがうれしく有り難いことやわ』
あの辛さの中で、どうして言えたのだろうといまでも不思議です。
前の晩、婚約者のAさんへ渡した私からの手紙に、
『「ここまでよく辛抱した」「がんばった」とほめてあげてください。
ひとえにAさんの支えがあったからこそと、
深く、深く感謝致しております。
本当に有難うございました』
とあったのを、Aさんから聞いたのでしょう。
「がんばった」ことを、
母が、Aさんがわかってくれたこと、
それがどんなにうれしかったか・・・。
自分の人生まるごと肯定されたように思ったのでしょうか。
Aさんへの感謝を伝えてくれた母の配慮も、
同じく自分自身を認めてもらえたように思ったのかもしれません。
〈私は必ずあなたの傍らにいるよ〉
とのメッセージは、
郁代にとっての「たしかなこと」だったのでしょうか。
・・・・・
夕方、オーストラリアからAさんが訪ねてくれた。
この日を待ちに待っていた郁代だったが、朝から腹水の張りがひどく、日中うつむいたり、横になったり…ずっと苦しそうにしていた。
Aさんを交え家族揃って夕食を摂る。
「元気がでてきたわ」
やっと郁代に明るさが見えてきた。
夜、ホテルへ帰るAさんに私はそっと手紙を渡した。
『[せっかくの貴重な二人の時間を楽しく過ごしたかった」と、誰よりも郁代が願っていたと思うのに残念です。
7月10日頃より全く食べられなくなり、14日には腹水700ccほど抜くも限界。
時々の水分点滴だけで体力を維持しています。
今朝は腹水のため張りがひどく苦しそうです。
「ここまでよく辛抱した」「がんばった」とほめてあげてください。
ひとえにAさんの支えがあったからこそと、
深く、深く感謝致しております。
本当に有難うございました。
今までは、少しでも楽しいことを先に用意し、
Aさんの励ましで前を向いて歩いてきたけれど、
これ以上は…という気持ちが強く感じられるようになりました。
身体が限界なのでしょうね。
7月18日 郁代の母』
翌日、郁代とAさんはホテルで静かな時を過ごした。
もう長くは残されていないかもしれない。
大切な、大切な二人の時間だった。
その晩、我が家に泊まったAさんが、20日の早朝、家を発つとき、
郁代と固く手を握って言った。
「がんばらなくていいからね」
郁代の体調からいって、これ以上滞在することは出来なかった。
医師の治療が待っていたのである。
7月20日
「やさしい家族、すばらしい家族がいたということに気づいたよ。病気になった辛さより、そのことがうれしく有り難いことやわ」
と郁代が明るく笑った。
身体は辛いはずなのに、
「有り難い」という言葉が聞けたことが不思議だった。
「自分を納得させられる理由がないから、苦しいよね」と私が言うと、
「病気だけは、不条理だね。だれのせいでもないのにね」
郁代は、遠くを見つめてそうつぶやいた。
「病気になんかならない、丈夫な身体に生んでほしかった…」、
と嘆いた時期もあっただろうに、恨みの言葉は一度もなかった。
「今まで親しんだ友達に、お別れとお礼をいわなくちゃ。
連絡しないまま終わったら、〝私ってそんな軽い存在だったの?〟と後で落ち込んだらかわいそうだからね。
これから友達がいっぱい訪ねてくるから、よろしくね」
「ああひどい…」
「くるしいなあ…」
身体の状態は少しも良くならなかったが、
だからこそ郁代は、今できることをしたいのだった。
「あなたにあえてよかった」より
・・・・・
「聞其名号信心歓喜」からです。
天地一杯からの食物を食い
天地一杯からの水を飲み
天地一杯からの空気を呼吸し
天地一杯からのいのちを生き
天地一杯の絶対引力にひかれ
天地一杯として澄み浄くなる
天地一杯こそ私の帰る処
が、郁代の声となって聞こえてきました。
『やさしい家族、すばらしい家族がいたということに気づいたよ。
病気になった辛さより、そのことがうれしく有り難いことやわ』
最期の晩(8月13日)の
『これまで、お母さん、完璧やったわ。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの…』
そして昨日の摂取して捨てざれば に書いた義父25年前の言葉
「自分が、だちか〜ん(無力な)者やとわかったことがありがたいがや…」
私がこれらの言葉に出会った不思議。
「あなたにあえてよかった」で、
一番書きたかったことでした。
時間に制約のある
24時間テレビ1
24時間テレビ2
では、表現できなかったのでしょう。
「本当に大切なことは目に見えない」(星の王子さま)ですものね。