摂取して捨てざれば


ブログ「聞其名号信心歓喜」より


『凡夫ぶりがありのままに観察されるので<懺悔>といいます』


を読ませて頂いて、
老衰で寝たきりになっていた義父(90歳)の言葉が思い出されました。


ほとんど食事も摂れないほど弱ってきたころ、
介護していた私を呼んで言いました。
「ありがた〜いことが、わかったがや!」
私は一瞬、
(紫の雲がたなびくかなたから、仏さまが迎えに来られたのだろうか)と、
次の言葉を待ちました。
ところが・・・
「自分が、だちか〜ん(無力な)者やとわかったことがありがたいがや…」
そう言ったの顔は、満ち足りて輝いていたのです。


「ありがた〜いこと」とは


「自分で生きてきたのではなかった。
大いなるはたらきによって生かされている身であった。
そのことがわかってうれしい」


義父が、そう言っていたのだと教えられるのです。


〜念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり〜



病室の四方を本棚で埋め、寝たきりになっても仏書に囲まれていた読書家。
勤勉で努力家、地域の社会福祉に一生を尽くし、誰からも慕われていた人でした。
明治生まれで、意思強固、
これまでの人生、苦労はしても思いを実現できなかったことはなかったかもしれません。
“寝たきり”になることを除いては・・・。




郁代もまた「自力無効」の仏の光が届き、
有難いの思いに包まれたのでした。


全休さん、有難うございました。



ブログ「聞其名号信心歓喜」より


摂取不捨の利益
  弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて
  念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
                        (歎異抄・第1章 21)

 
 「光明」とは智慧であり、智慧とは「自分が見える」ということです。
仏の眼をいただいたので「自分が見える」ということが起こるのです。
見る<仏>と見られる<わたし>、仏とわたしの関係性が初めて成り立つ瞬間の宗教体験を<信の一念>といいます。

 
 見る<仏>と見られる<わたし>の関係性に入ると、
その関係性は二度と壊れないので
「摂取不捨」とも「心光照護」ともいいます。
仏に見られていることを<憶念>ともいい、仏の方から「自分が見える」ので、煩悩がよく見え、見えることにおいて煩悩から影響を受けないでいることができます。




摂取して捨てざれば  
  十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなわし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる
                        (浄土和讃 20)*472


「念仏の衆生をみそなわす」ところの仏の視線、
仏の監視の中に入ることを「摂取」といい、<仏>の方から<わたし>が見えるという、<仏>と<わたし>の関係性が確立することを「阿弥陀」といいます。
また、<仏>と<わたし>の関係は一度できると二度と壊れないので「摂取不捨」(せっしゅふしゃ)といいます。

 
仏の側から見える自分を観察できるようになると、
いかに情けない凡夫ぶりであるかが分かって、
自分にはなんの価値もないと知られます。
自分にはなんの価値もないので<無我>といい、
凡夫ぶりがありのままに観察されるので<懺悔>といいます。