「ただいま!」 「おかえり!」

旅先で



「〝ただいま!〟と帰っても、
〝おかえり!〟と答えてくれるおばあちゃんの声が聞けなくなった」


今でもふっと、よく思い出すのです。
八十歳のおばあちゃんが亡くなって、
三年生のいくちゃんがつぶやいたことば。


「ただいま!」「おかえり!」
ふつうの当たり前の事が大事だってこと、
いくちゃんが教えてくれました。
被災地の方の思いと重なり、この頃よく涙が出るのです。


被災地の手紙「忘れない。」 にも、こんな内容がありました。
・・・・・
来年(2012年)こそは穏やかに、ふつうの当たり前の事にも感謝し、
自分を大事に家族を大事に、
一日一日をていねいに過ごしていこうと思っています。
3月11日の朝、普通に子供を、だんなを、
「いってらっしゃい!!」
と送り出した時のことを忘れたくなくて、
ずっと頭の中に記憶で残していきたいのです。
                     石巻市、0さん(33歳]
・・・・・


私の書いた本、「あなたにあえてよかった」には、
三年生のいくちゃんが出てきます。

・・・・・
八歳(三年)の夏休み、八月一日におばあちゃんが入院。
脳梗塞で全身不随だった。
昼はわたしの実家の母が介護し、夜は仕事を終えて駆けつけるわたしと交替した。
その年の四月、当時私が責任者だった保育園が新築オープンしたばかりであり、
新入園児を抱え、片時も目が離せなく忙しい毎日を過ごしていた。
朝、家に寄って洗濯と食事の用意、昼は隣接の保育園で勤務、夜は病院、
の三点移動がわたしの日課だった。
今日も一日、子どもの顔を見なかったなあと思う日が何日も続いた。


そのころ、いくちゃんに家族との夏休みはなく、いつも私の妹が助けてくれ、
海や山、食事へと連れて行ってくれていた。
「いくちゃん、あまり楽しそうでなかったよ。
おかあさんがいないから、つまらなそうだったよ」
妹が言うことはいつも同じだった。
あんなに仲良しの、いとこのまきちゃんも一緒なのにと思った時、
さみしそうないくちゃんの顔が浮かんだ。
三人の子どもの世話をしてくれたおばあちゃんは、八月の終わりに
八十才で亡くなった。眠ったように、安らかに逝った。


おばあちゃんは姫路出身だったから、子どもとの会話も関西弁が多かった。
「ね〜これどうするん?」
「どない?」
「おばあちゃん、学校の帰り、小川でかもが泳いでいたんだよ」
「そうか」
おばあちゃんは、こどもの話を「そうか」と関西風に語尾を上げ、
静かに聞いていた。


一方、怒りんぼうの私の言葉は、少しも子供に伝わらなかった。
見えないものを見ようとせず、
聞こえない声を聞こうとしなかったからだった。
うまく言えないままの子供の声の方が、ずっと多いことを忘れていたからだった。
おばあちゃんは口数が少ない人で、
他人のうわさ話や、悪口を言ったことがなかった。


それから半年も経てから、ふと目にした夏休みの日記帳。
三年生の我が子の宿題を一度も見てやらなかった事に
この時まで気づかなかったとは、なんとひどい母親。


そして・・・日記帳を読んだ私はひっくり返りそうになった。
夏休みのいくちゃんは、
行った覚えのないお母さんと一緒に海や山へ行き、
楽しく過ごしたことになっていたからである。


   八月三日 お母さんやおにいちゃんと海へいきました。
   アイスクリームを買ってもらいました。
   みんなでおべんとうをたべたら、とってもおいしかったです。


   八月十七日 お母さん、お父さん、お兄ちゃん、おねえちゃんと
   山へキャンプにいきました。
   川の水はつめたくて、スイカをひやしてたべたら、おいしかったよ。
   キャンプはとても楽しかったから、また行きたいです。
  

書かれていたのは、その年の夏休みの話ではなく、
それまでに行ったことがある家族旅行のことだった。
「本当はお母さんと行きたかったの」という声が聞こえてきた。
親がいなくても、いくちゃんは外でだれとでも楽しく遊べると思っていたのに…。
近所のお友だちと、朝から晩まで元気に遊べたのは、
いつ帰っても、「ただいま!」と言えば「おかえり!」とやさしく迎えてくれる、
おばあちゃんがいたからだった。
夜には必ず帰ってくるお母さんがいたからだった。


「楽しいことが、いっぱいあったのですね」
赤で書かれた先生のコメントが胸に突き刺さった。


「〝ただいま!〟と帰っても、
〝おかえり!〟と答えてくれるおばあちゃんの声が聞けなくなった」


ある日、いくちゃんはさみしそうにポツリと言った。
いくちゃんはまだ三年生だった。
・・・・・


「ただいま!」「おかえり!」
 今はおばあちゃんの胸に抱かれた、いくちゃんが浮かんできました。





あなたにあえてよかった