「天地いっぱい」

桐の花



全休さんの 天地いっぱいに、
「天地いっぱい」の恩恵の中に、私の「いま」という刹那がある。
とあり、郁代の声となって聞こえてきました。


郁代の最期の言葉は
「これまで完璧だった。必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの・・・」
でした。



全文を紹介させていただきます。
全休さん有り難うございました。  


「天地いっぱい」


ちょうどその時期、弟子の一人が安泰寺に花壇をつくり、チューリップを植えてくれた。
するとその翌春、じつに見事に、花が咲き揃った。
真っ赤なものもあれば、紫やら白やら黄色やら、華麗きわまりなく多彩なのである。
私は、不思議でならなかった。
どうして同じ土の中から、こんなにもいろいろな色彩が出てくるのであろう
と、そんな疑問が、なぜか新鮮で、いつまでも見入っていたものである。
  

すると、そのとき、これは土だけの働きではない、という、しごく当たり前の道理に思い至った。
土だけが芽生えて花を咲かしめたのではなく、
空気の中の酸素や炭酸ガスも吸っているのだろうし、太陽の光や熱も吸収している。
そうしてこのように「天地いっぱい」のところから、チューリップは咲いた。
そういう天地いっぱいの営みの中で、
赤いチューリップの球根からは赤い花を咲かせ、白い球根からは白い花が咲いた。
やがて、この花は枯れても、やがてまた、天地いっぱいの中で、
つぎなる赤い花、白い花が芽生えてくるであろう。

  
私も同じ原理の中に、いま、立っている。
同じ生命力で「いま」を生きている。
いや、同じ「天地いっぱい」の恩恵の中に、私の「いま」という刹那がある。
                 (内山興正著『独りで歩け』より)


内山老師の悟り体験であろうかと思います。
すなわち、「天地いっぱい」の恩恵として、わたしの「いま」という刹那がある、と気づかせていただければ、
いま、このままで、なに不自由のない、完璧な命の世界であるから、
愚痴や文句ばかり言って生きている自分が恥ずかしくなる。
                         (全53回/その48)