「み運びのままに」 2

まりんかさんから、
郁ちゃんへの愛がいっぱい込められたお供えです。
『天草レッド』  食べれる宝石 
う〜ん、おいしすぎる!





「み運びのままに」 1に続きます。


「み運びのままに」  
                   浄秀寺前住職  藤 原 正 遠
                   き  き  て  金 光 寿 郎


 
金光  そうすると、行く方も気にならないけれども。
よく死んでお浄土へ行くとかですね、極楽へ行くとかという話が仏教の場合、そういうふうに思っていらっしゃる方、多いと思うんですが、極楽行きとか、そういうのはあんまりお考えになりませんですか。

 
藤原  今が極楽です。

 
金光  はあ、そうですか。これから行く必要もないわけですか。

 
藤原  極楽ということは、永遠のお命の現れがここにおるという、それが極楽ですね。
そうなると『三世の業障(ごっしょう)一時につみきえて』て、そういうことでしょうね。
罪というのは私中心にしていることが罪なんですね。
『三世の業障(ごっしょう)』業(ごう)というのは私の業(ごう)やと思っているのです。
 

金光  業障(ごっしょう)というのは、業(ごう)の障(さわ)りと書くわけですね。
 

藤原  それで如来業(ごう)なんですね。
そうすると、三世の如来業だったら、一時につみきえる。
罪と障り、しこりがとれるから、『三世の業障一時につみきえて、正定聚不退転』とは、
今言う、永遠の命の流れの中におる身であったと、今知らせてもらう。
まあそれだから、仏様のお仕事の中でね。
もう向こうで用意してあるんでしょう死ぬ日も、又、行き先があってもなくても、仏様のご用が用意してあるというようなところでいま不安がないようです。
 

金光  数年前に心筋梗塞でお倒れになりましたですね。
そういう時も、やっぱりその、み仏のお運びのままということでしょうか。
 

藤原  そんなこと考える暇ありませんわ。病気の時は。
 

金光  大変苦しいそうですね。
 

藤原  ええ、苦しいからね。「苦しい、苦しい」でね。
「よくなりたい」という言葉でなくて、苦しいからでしょうね。
「あら、よかった」というのは後でね。
 

金光  それはそうでしょうね。
でも、病気になってお倒れになって、それでそのことを、ああ、あの時はこうだったんだなあ、というふうにお考えになると、また別にそれで、その後の不安とか、なんとかは出てこないんですか。
 

藤原  元がおまかせになってるからなあ、
「ああ、良かった」「あら、助かったなあ」くらい言ったんじゃないんですか。
死にとうない、というのも仏の声だから。
 

金光  成る程。あ、それは自分が死にとうないということも、含めて仏様の声。
 

藤原  死にとうないということが、仏の声ですからね。
何を言うとってもいいわけです。
 

金光  ああ、そうですか。
 

藤原  何か変わったものになるんじゃなくて、言っていることが、みんな仏の声ですから。「死にとうない、死にとうない」と言うてね、死んでもそれが仏の声ですから。
そしたら今、やっぱり病気して死にとうないなあと思っていても、よくなるとあらよかった、と思うままが仏の声なんです。
 

金光  そうすると、煩悩を滅して、涅槃に入るとかですね。
皆さん何か、煩悩というのを目の敵にする場合が。
 

藤原  滅して、でなくて、『煩悩即菩提』です。
煩悩が仏業(ほとけわざ)ですから、『煩悩即菩提』です。
滅しでないんですわ。
 

金光  消えないですね、これは。
 

藤原  煩悩が仏のものなのや。
それだから、消える消えないではないわなあ。仏の仕事なんだから。
煩悩が私のものと思って、苦労しておったんだけども、
煩悩が仏様のお与えだということになれば、人様の煩悩も認められますね。
 

金光  はい、はい、それはそうですね。


藤原  それだから、腹立つのがを良いとか、悪いとかじゃないでしょう。
気にいらんと立ちますよ。
それだから、腹立って、いい身になったら楽ですわ。
そして、何時も立てるわけではないですわ。
何食べてもいいと言っても、腹一杯の時には食べれませんからね。
それで、気持が自由になりますわな。
それからまた、人様のなさっていることを、ご苦労さんと思いますね。
泥棒さんでも、ご苦労さんですわ。
夜中にこっそり入って、下手すると捕まるしね。
 

金光  でもそこまで、やっぱり泥棒に入られたら、困るとかですね。
 

藤原  そう、こちらは勿論困る。困るのも本当だしね。入るのにもわけがあるのや。
それだから、蛇がカエルを飲んで、蛇は永遠に憎まれるでしょう。
蛇はあれは先祖伝来憎まれる。
カエルはいとしがられておりますから。
まあ、この世の中もカエルになったり、蛇になったり、やっているんでしょう。
 

金光  しかし、そういう話を聞くと、うっかり聞くと、それじゃ、煩悩は、何をしても善いんであれば、世の中は滅茶苦茶になるんではないかと、想像する人がいるんではないかと思いますが。
 

藤原  居て結構ですわ。
 

金光  ああ、そうですか。
 

藤原  何故なら、下さる煩悩しか出ないもの。
 

金光  はあ、成る程。
 

藤原  ですから、「どうぞお出し下さい」と言いますわ。
言いましてね、その人殴るご縁があると、殴れることだし、喧嘩でも縁がないと出来ないからね。
何をやっても良いですよ。
みんな何をやってもいい中でやっていますわ。
 

金光  そうですね。
しちゃいけないと言いながらそういうことばかりする人もいますし。
 

藤原  向こうの方が強いと思うと、手を引いているし、こっちが強いと出ているしね。みんな自由にやっているわけですわね。
 

金光  ただ、それで自由になると、むしろ本当に何をしても良いということになると、自分に一番適していることをするようになるのかも知れません。
 

藤原  そうですよ。やっぱり美味しいものを食べるようなもんでね、
何をやっても良いということになっても何もやれませんわ。
下さることしか。
また、何をやっても良いとなると、自分の気に入ったことやら、人様に邪魔せんことをやった方が一番楽なんです。
 

金光  そうですね。
 

藤原  そういうことでしょうね。
 

金光  煩悩については、前にお作りになった歌だと思うんですが、
 
      煩悩をわがものとする卑下慢(ひげまん)に
         永(なが)くとどまりみ仏を見ず
 

というお歌があるんですが、卑下慢というのは高慢の反対ですね。
自分を卑下するのも、慢の中なんですが。
自分に煩悩があるからというのは、これはやっぱり、卑下慢、慢の中のことなんでございますか。
 

藤原  そうですね。煩悩。
 

金光  で、自分の煩悩があるから困るなんて言うのは、それがある間は、仏様の方を向いていないということなんですか。
「永くとどまり、み仏を見ず」というお歌なんですが。
 

藤原  煩悩を私の煩悩とするからね。
仏の煩悩になったらなあ、問題はない。
 

金光  そこのところが。
しかし、やっぱり私の何かしたいとか、あれが欲しいとか、やっぱり私のものじゃないかと思うのが普通じゃないかと思いますが。異うのですか。

藤原  それが気になるかならんかでしょう。
引っかかるか、引っかからないか、同じように私やっていますけどもね、
仏に遇うたんでしょうか、気になりませんもの。
 

金光  じゃ、そこのところが同じく煩悩を詠われている歌で、
 
       
       煩悩が仏のわざと知らされぬ
          余るいのちをいとしみ生きむ
 

というのは、
「煩悩が 仏のわざと 知らされぬ 余るいのちを いとしみ生きむ」
そうすると煩悩が邪魔じゃなくなるわけですね。
 

藤原  そうですね。仏の煩悩になったらなあ、煩悩は邪魔になりませんしね。
そうしたら、お出ましのままに、歩かしてもらいましょうと、
こういう意味でしょうからね。
 

金光  そこのところを、また異った表現で、
 
     
       酔生夢死(すいせいむし)のままでよろしき安(やす)けさを
          いただきにけり弥陀(みだ)のみ恵み
 

というお歌があるんですが、
 

藤原  若い頃は、酔生夢死ということで、中学時代でも、しっかりして生きなならんとか、眠ったような生活をしてはいかんということで、教育されて来ましたけれども。
今は、寝ても起きても、全部それが“一如”一つに見えるようになったものですから、
頭が鈍かろうが、良かろうが、私には今関係がないのですよ。
それですから、亀は鈍(のろ)いと言うんだけども、
あれは比較病で、如来の与えられた速度ですからな。
 

金光  ウサギより確かに遅いけれども、それはそれで、
 

藤原  そうそう、ウサギはまた、亀みたいになったら、また困りますよ。
ですから、このままが、みんな自然(じねん)法爾(ほうに)の世界だと、見えるようになったんでしょう。
それだから、こっちは楽になったんでしょう。
学問がある人も、ない人も、頭がいいとか、悪いとか、そういうところに、今まで引っかかっておったけれども、このままで生きられるようになった、自分を楽しんでるんでしょう。
 

金光  苦しみみたいなものがなくなってしまうわけでもない、何か困ることは出て参りますでしょう。それを困ったら、困ったままで、
 

藤原  そうそう。困った時は困ったのが真(まこと)ですね。
真(まこと)という言葉を使えばね、みんな真(まこと)ですわ。
                            (つづく)
             (平成八年十一月十日「こころの時代」より) 


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永遠の命の流れの中におる身であったと、今知らせてもらう。
まあそれだから、仏様のお仕事の中でね。
もう向こうで用意してあるんでしょう死ぬ日も、又、行き先があってもなくても、仏様のご用が用意してあるというようなところでいま不安がないようです。
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有難うございました。