「思うようにならんでこそ有難い」

「ひょっとしたら、与えられたことが本当は最良なのかもしれない」


昨日も少し書いたのですが、《宇宙は、今日も私を愛してくれる》から、

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受けとめていくこと


私たちは毎日毎日
いろんなものを受けとめながら
ようやく 前へ進むことができるのだと思う


毎日のように私たちのまわりで
望むと望まないにかかわらず
いろんなことが起きる
そのほとんどが
自分の力の及ばないことばかりだ


泣いても 怒鳴っても 足を踏みならしても
懇願しても なにひとつ変わらないことばかりだ


私たちはていねいに、自分の気持ちを見つめ
なんとか時間を味方にして
悲しみや苦しみを抱えながら
朝になるのを待ち、夜になるのを待ち
重い気持ちを奮い立たせる


自分の望んでいることだけが
自分にとって、一番いいことのように
思い込んでいるけれど、
ひょっとしたら
それは最良ではないのかもしれない
目の前の一点のことしか見えず
ただ涙にくれるけれど
ひょっとしたら、与えられたことが
本当は最良なのかもしれない


受けとめていくこと、受けとめていく作業
私はそれをしなくてはならない
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いつも読ませて頂いている“全休さん”の仏教ブログ、
昨日は「思うようにならんでこそ有難い」だったので、
またまた驚きました。


引用させていただきます。
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  世の住み憂きは厭うたよりなり、とあります。
  この世がうまい事行って面白かったら、ドウシテ念仏が称えられましょう。
  ・・・思うようにならんのが有り難いの。
  苦しいのが当たり前、苦しいのがお念仏のご催促。
  思うようにならんのもお念仏のご催促じゃ。
  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


  この世は獄屋。三界の牢獄、三界は火宅と仰る。
  思うようになったらなおさら罪を造る。
  ・・・思うようにならんでこそ有難い。思うようにならんでこそ、
     実に有難いの。
  ・・・嬉しい時はお念仏はでません。
  ・・・悲しいときはおのずとなァ・・・
  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

  (高下恵編「村田静照言行録」百華苑 242ページ)


 思うようにならないことを苦というのでしょう。
つまり、苦は“外”にあるのではなくて“内”にある。
そのことに気づけば「思うようにならんのが有り難い」というのでしょう。
金がないことが必ず苦となるわけではないし、
病気になったら必ず不幸にならなければならない訳でもない。
人より劣っているのにみな平気でいるが、拘るものによっては悩みになる。

 
 この世を「三界の牢獄」にするのは“思い”という実にちっぽけな尺度(価値観)であり、思いという我執がなくなれば、この世は浄土になるのでしょう。
しかし、わたしたちは思いをしっかり手に握りしめて離そうとしないから、
浄土を火宅にしてしまう。
「苦しいのがお念仏のご催促」、
お念仏は“思いに縛られるなよ”と教えている。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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《宇宙は、今日も私を愛してくれる》には、こんなことも書かれていました。

宇宙は、今日も私を愛してくれる

宇宙は、今日も私を愛してくれる

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どのようなこともなるようになっている  


 ある日のこと、あるお坊さんに出会ったときのことです。
不思議なことやわからないことがあると、どんなことでも聞かずにいられない私は、
お坊さんに
「“悟る”とはどういうことですか?“南無阿弥陀仏”とはどういう意味ですか?」
と尋ねました。お坊さんは
「どういうことを“さとる”のかというと、どんなことも、なるようになっているということです。
偶然はなく、いつも起きるべくして起き、出会うべくして出会うのです。
それから“南無阿弥陀仏”とは、
人がむなしく生きなくてすむように、“もの”や“こと”や“人”がまわりにあらわれて出会うことができるということです。
まわりにある“もの”も“こと”も“人”もみんなその人に必要だからこそ、
そこにあるのです」
ととても優しく教えてくれました。
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郁代が最期の夜に言った言葉が思い出されました。
「これまで、お母さん、完璧やったわ。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの…」


かっこちゃんも、お坊さんも、郁代も、
言っていることはみな同じだなあ、と思ったのでした。


『どのようなこともなるようになっている』


『与えられたことが本当は最良なのです』