仏を讃える


「浄土は高い山の頂の先にはなく、一番下の、登り始める前の山の麓にあった」


全休さんの仏教ブログ「オチルモノヲスクウ」 を読ませていただきました。


郁代の声が聞こえてきました。
「会いたい人、みんなに会えてよかった。
あしたから、わたしだけの時間にして静かにすごすわ・・・。
これまでお母さん、完璧やったわ。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの・・・」


義父が亡くなる前に、
「ありがた〜いことがわかったがや」
と語ったときのことが思い出されました。


20年以上前になりますが、
義父(90才)は老衰のため自宅で寝たきりになりました。
仏書を読むのが好きだった義父は、
家中から集めた本を持ち込み、寝室の四方の壁は本で埋まっていました。
あるとき、私を呼んでこういいました。
「ありがた〜いことがわかったがや」
「どんな凄いことがわかったんだろう」とそばへいくと、
こういいました。


「自分が“だちか〜ん者”(無力な者)やと分かった。
そのことがありがたいのや」


「自分はこれまで生かされてきたのだ、
凡夫(ぼんぶ)の自分に気づかされた。
それがわかって、うれしくてたまらないのだ」
とわたしには聞こえました。


そう言った時の義父の顔が、
笑顔で輝いていたことを、私は忘れません。
いつも仏書を開いたまま、うつらうつら眠っていました。
どこも痛いところはなく、老衰で動けなくなったのでした。
自然のままに、大木が枯れるように往きました。


義父の言った「有り難い」を、
「賜った信心」というのかなあと、最近になって思うのです。
あの時義父が輝いていたのは、
仏を讃える喜びに満ちていたからなのだなあと気がつくのでした。


オチルモノヲスクウ
・・・・・
  凡夫のマコトは落ちる姿がマコト・・・
  こう喜んでいます、こう信じました、こう聞いています・・・
  それはマコトの姿でのうて、落ちるより外にないのがマコトの姿でしょうが・・・
  お阿弥陀さまにはオチルモノヲスクウと呼んで下さるのじゃから、
  マコトの姿のなりで、用意もいらぬのがお他力・・・

  (高下恵編「村田静照言行録」百華苑 216ページ)


 断崖絶壁から延び出た枯れ枝にしがみついて、落ちないように落ちないようにと必死にしがみついている人がいる。そんな人を仏は下で手を差し出して、さぉ落ちてこい、落ちてこい、と呼んでいる。しっかり受けとめてやるから落ちてこい、と。

 上へ上へと、多くの善意の人を蹴落とし、踏みつけにして、上へ上へと登ってきたが、お浄土は高い山の頂の先にはなく、一番下の、登り始める前の山の麓にあった。なにも知らずに、上へ上へと、人にも言えぬ惨めな努力をしてきたが、すべての努力に意味がなかった。
・・・・・


断崖絶壁から延び出た枯れ枝にしがみついて、
落ちないように落ちないようにと必死にしがみついている・・・
そんな私を、受けとめてやるから落ちてこいと、
下で手を差し出して待ってくださる仏がいるしあわせ。


今日もあなたにあえました。