なぜ わたしなの?
山側の私の地域は8月がお盆ですが、
実家のある市街地は、7月がお盆の墓参りです。
今日は私もお参りに行きますが、土曜日なので人出が多そうです。
命日の8月が近づくにつれ、しきりに郁代の事が思い出されてなりません。
ブログのどこを開けても、郁代に出会えるのです。
これから、毎日のように話しかけることになるでしょう。
シドニーの友人ミキさんから頂いた手紙です。(再掲)
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いくちゃんはいつもニコニコしていて、
人のためだったら努力を惜しむことなく、
自分を犠牲にしてもがんばる人です。
いままでいろいろとお世話になり本当に感謝でいっぱいです。
スポーツ万能で暇さえあれば水泳をしたり、
恋人のAさんとヨーロッパや、バリ、タイに行ったり、
病気とは縁のないような、活発な毎日を過ごしていたんですよ。
今になると、Aさんと付き合う前から、
いくちゃんの運命は決まっていたのかな〜と思います。
Aさんとは性格から趣味まで何もかも合っていて、
「これ以上かけがえのない方」と言っていました。
こうやって思うと、Aさんと出会って、
短期間でしたがいろいろ楽しい日々を送って、
天国に行くための準備をしていたのかなと思います。
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「がんになったのが、他の誰かではなく、なぜ わたしなの?」
と郁代は繰返し自問したことでしょう。
郁代の思いはそのまま私の思いであったので、痛いほどわかるのです。
なぜ、スポーツ好きで、活発で明るい郁代だったのでしょう。
なぜ、母親の私ではなく、娘の郁代だったのでしょう。
郁代が再発したとき、ふとわたしの頭をかすめたこととは…。
「私は溺れた子供を救いました。
それなのに、なぜ郁代を救っては下さらないのですか?」
私が助けたのではなかったのに自分の手柄にして、
私は交換条件に使っていたのでした。
今なら、少しだけわかります。
溺れた子が助かったのも、郁代が病気になったのも、
仏の大きなはからいだったのでした。
溺れた子は私が助けたのではありませんでした。
私のはからいを越えたことでした。