「あたりまえ」

今日は郁代とお別れするひと月前の日、あれやこれやと思い出されます。

郁代も読んでいた
「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」

一言ひとことが郁代の言葉となって胸に迫り、涙があふれます。
あの時、郁代はどれほど望んだでしょう、
「あたりまえ」を。

井村和清医師は、
愛する妻、幼い長女飛鳥ちゃん、そして愛する奥さんの胎内に宿る小さな命を遺して、
癌のため32歳の若さで亡くなりました。
なくなる前に書かれた詩があります。

「あたりまえ」

こんなすばらしいことを、 みんなはなぜよろこばないのでしょう。
あたりまえであることを。

お父さんがいる。
お母さんがいる。

手が二本あって、足が二本ある。
行きたいところへ自分で歩いて行ける。
手を伸ばせばなんでもとれる。
音が聞こえて声がでる。

こんなしあわせはあるでしょうか。

しかし、だれもそれをよろばない。
あたりまえだ、と笑ってすます。

食事が食べられる。
夜になるとちゃんと眠れ、
そして、また、朝がくる。
空気を胸いっぱいにすえる。

笑える、泣ける、叫ぶこともできる。
走り回れる、みんなあたりまえのこと。

こんなすばらしいことを、 みんなは決してよろこばない。

そのありがたさを知っているのは、 それをなくした人たちだけ。

なぜでしょう。あたりまえ。
                (再掲)