生死を生きる 4

青木新門さん「こころの時代」(2014年7月19日)より
生死を生きる 4

〜死を隠蔽する社会〜

今日のわが国の社会は、ヒューマニズム(人間中心主義)を基盤とした科学的合理思想で、パラダイム(時代の支配的な物の見方)が成り立っています。
こんな少年の詩があります。小学4年の男の子の詩です。

          トンボもゴキブリも昆虫なのに

     ぼくは今日学校の帰りに 
     トンボをつかまえて家へ帰ったら 
     お母さんがかわいそうだから はなしてあげなさいと言った 
     ぼくはトンボをはなしてやった
     トンボはうれしそうに空高く 飛んでいった 

     それから台所へ行くと 
     お母さんがほうきで ゴキブリを叩き殺していた 

     トンボもゴキブリも昆虫なのに


少年の眼には差別がありません。
お母さんは「トンボはかわいそうだから、放してやれ」と言いながら、
ゴキブリは叩き殺す。

このことは人間に都合のよいものはかわいそうと思うが、
都合の悪いものは叩き殺しても心に痛みも感じないということです。
 また科学的合理主義の欠陥は、分けて思考する癖がつくことです。
分別があるということは頭がいいということになり、
分別がないということは頭が悪いように言われます。

そのことはやがて丸ごと認める力がなくなることです。
差別が生まれ、いじめが始まります。
自分に都合の良いものは善とみなし、
自分に都合の悪いものは悪とみなすようになります。

特に顕著なのは生と死に関していえます。
いつの間にか我々は生と死を分けて考えるようになり、
生にのみ価値を置き、死を悪とみなすようになりました。

生と死を複眼で見る視座が宮沢賢治にもありました。
このような複眼の視座は、生死一如を説く仏教思想から育まれたものです。

生と死を分けて思考し、生にのみ価値を置き死を悪ととらえ隠蔽する社会は、
真実の世界を歪めているわけですから、歪んだ思想や行動を生んでゆきます。

私はこれまでに2000回ほど講演会をしてきましたが、
講題はすべて「いのちのバトンタッチ」です。

 
前に生まれんものは後を導き 
後に生まれんひとは前を訪へ
                    道綽禅師『安楽集』

                                           (完)


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