仏の光に照らされて

昨日に続きます。
29歳までの親鸞聖人と、
比叡の山を下りられた29歳以降の親鸞聖人とでは大転換が起こります。

その転換の時、
「雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す」
とおっしゃいました。

 親鸞聖人はさまざまな悩みを抱えながらも、学問を徹底的にやられ、
一生懸命仏道修行にはげまれた。
けれども、どこまでいっても自分の生きる道が明らかにならなかった。
我執を離れることができなかった。

 法然上人に出会われて、それまでの自分の歩みのすべては捨て去らねばならない歩みであったことに、親鸞聖人は気づかれました。

「雑行」(ぞうぎょう)は、念仏以外の自力作善の行であり、
「本願に帰す」とは、自力作善の心を棄て、他力の念仏を頂く身となることでありました。

信心というものは私が信じることだと思っておったけれども、
実は仏さまのほうからお届けいただいていた。
私が仏さまを信じるのではなかった。
如来さまからたまわった信心だった。
私に先んじて仏さまのほうが私のことを案じてくださっておった。
願いをかけてくださっておった。
そこに身をゆだねようと、大転換が起こリました。

たどりついたその先には・・・
南無阿弥陀仏となってはたらく如来の願力に照らされた世界が広がっていました。

正像末和讃    親鸞八十八歳に書く 
 
愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじゅっかい) (十六首中より二首) 
    

一、浄土真宗に帰すれども    
  真実の心はありがたし    
  虚仮不実のわが身にて    
  清浄の心もさらになし              

           (私は浄土真実の教えである本願に帰依して、
           自分に真実心がないことを知った。
           私は虚いつわりに満ちた不真実の人間である。
           法蔵菩薩が浄土を造るために捧げられた清浄心も、
           かけらもない)  

二、外儀のすがたはひとごとに  
  賢善精進現ぜしむ     
  とんじん邪偽おおきゆえ   
  かん詐ももはし身にみてり  

           (私たちは外見はそれぞれに賢者、善人、
            精励者のようにみせかけている。
            内実は貪欲であり怒りやすく、邪悪と偽りに満ち、
            人をたぶらして落とし入れる策略にあふれている)


90歳で亡くなった念仏者であった義父の、最後の言葉が思い出されました。
自宅で寝たきりでしたが、ある日私を呼んで言いました。
「有難いことが分かったがや」

なんだろう、紫にたなびく雲がお迎えにきたのだろうか・・・
すると、
 
    「自分は無力で愚かな者だということがわかった。
    そのことが有難い・・・」

今思えば、
親鸞聖人の悲歎に自身を重ねていたのかもしれません。

郁ちゃん、あなたが輝いていたのも、仏の光に照らされていたのでしょうか?