「永訣の朝」

西田幾多郎記念哲学館 
  

昨日の「つらら しゃべった!」のコメントで、
iireiさんが宮沢賢治の「永訣の朝」に触れてくださいました。

そのとき、以前西田幾多郎記念哲学館でお聞きした 山折哲雄講演会を記事にしたとき、「永訣の朝」を書いたことを思い出したのです。

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私は母の故郷である岩手県花巻市疎開しましたが、
母は、家が近所だった宮沢賢治に会っています。
宮沢賢治の有名な言葉に、
「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」がある。
風の又三郎』では、はじめに風が吹く。
終わりは風の又三郎になって去っていく。
どの作品も、はじめと終わりに風がふいている。
宇宙とつながって、あの世の人と交信しているかのようだ。
妹、としこへの深い愛は、「永訣の朝」によくあらわれている。
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☆ 宮沢賢治 
「永訣の朝」
  
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる

ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・・・

*〈あめゆじゅとてちてけんじゃ〉
まもなく消える妹の命。
外は、霙(みぞれ)が降っているので変に明るい。
妹が熱で渇いた喉を潤そうとして、兄の賢治に「霙を取ってきて」と頼みます。


講演会で語られた「親鸞」を、再び読めたのも有難かったです。
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最晩年の西田幾多郎は、
個物と一般者の関係を、融通無礙に動かすようになり、
「一即多」とか「多即一」を成立させている世界の見方は
「絶対矛盾的自己同一なんだ」と断じた。

すでに親鸞は「悪人こそが往生する」と言った。
これは親鸞における「逆対応」である。
その論理を超える論理には「絶対矛盾的自己同一」がある。
私は、若いころは親鸞の『教行信証』が大切だと力説してきたが、
最近では『歎異抄』に惹かれる。
これまでは、「唯円や、そこに居合わせる人々と親鸞との語りあい」
という“場”が抜けていたと気がついた。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなりけり」    
                   『歎異抄

親鸞一人がためなりけり」が身にしみる。
親鸞は晩年、『和讃』に心血を注いだ。
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ブログのつながりで、忘れかけていた自身の記事に出会えることがよくあり、
今回もとてもうれしく思いました

一度引き出しに入れた大切なものはなくならないし、
いつでも取り出し、抱きしめることができます。