本当のことだから

旅立ちは特別に暑い夏の日でした。
いなくなったのではなく、姿が変わったんだね。


それは“本当のことだから”

郁代が亡くなった時、
「本当のことだから」山元加津子著)が部屋に遺されていた時はとてもびっくりしました。
帰国した年に発売されたもので、私はまだ知らなかった本でした。

私がかっこちゃんと最初に出会ったのは、
『さびしいときは心のかぜです』原田大助共著樹心社 1995年
によってでした。

1996年末より、郁代はオーストラリアでの生活を始め、
病を得て帰国するまで8年間過ごします。

その間のかっこちゃんの14冊の著書、ほとんどを読んでいる私が知らなかったのに、
ずっと外国にいた郁代があの動けない状態で、どうして知っていたのでしょう。

「本当のことだから」
第一章  大きな力って何だろう
     必要だから“そこにある”  (P16) 
には、こんなことが書かれていました。

・・・・・
ある日のこと、お寺で講演する機会がありました。
主催者の方が
「有名なえらいお坊さんが今日は山元さんの話を聞きに来て、
二時間ほど山元さんとふたりで過ごすことになります。
せっかくの機会だから、どんなことでもおたずねなさい」
と言うのです。

私との会話の中で、そのお坊さんは
親鸞さんがさとられた」
と言いました。
「さとるってどういうことでしょうか?」
「『なむあみだぶつ』ってどういう意味でしょうか?」
とたずねました。

「どういうことを“さとられた”のかというと、
どんなことも、なるようになっているということです。
偶然というものはなく、いつも起こるべくして起き、
出会うべくして出会うということです」
と言いました。

それから、
「“なむあみだぶつ”とは、人がむなしく生きなくてすむように
“もの”も“こと”も“ひと”も与えられるようにまわりにあらわれて、
出会うことができるということです。
まわりにある“もの”も“こと”も“ひと”も、
みんなその人に必要だからそこにあるということです」

「じゃあ、よくお年寄りが“おかげさまで”っておっしゃるのは、
そういうことなのですか?」

「そうです。つらくて、悲しいと思うことすら、そうです」

私、そのお話を聞きながら、すごく不思議な感じがしました。
お坊さんが言っていることは、
いつも大ちゃんや、学校の子供たちが教えてくれていることと同じだと思ったからです。
そして、さとりとか南無阿弥陀仏って、
もっともっとむずかしいことなのかなという気がしていたからです。

ところで、えらいお坊さんの言ったことと、仏様の教えというものと、
大ちゃんや子供たちが言うことが同じなのはどうしてでしょう。

お坊さんに、
「昔の人は、どうしてそんな大切なことに気がつけたのですか?」
とたずねたら、お坊さんはまた優しくほほえんで
「それは、本当のことだからです」
と言いました。

本当のことだから、
昔の人は知っていて、親鸞さんも知っていて、
大ちゃんや子供たちも知っている・・・・・。

本当のことだから。
・・・・・

郁ちゃん
最後の夜に語りかけてくれたあなたの言葉が思い出されます。

「これまで、お母さん、完璧やったわ。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの…」