鈴木大拙師と岡村美穂子さん

こころの時代〜宗教・人生〜
「心に枠のない世界〜鈴木大拙館をたずねて〜」 (23日午前5時〜6時)
をみました。


〈現代の西欧世界に、禅を中心に仏教の本質を伝えるために尽力し、
昭和41(1966)年に満95歳で亡くなった鈴木大拙師。
大拙師の記念館が郷里・金沢市に誕生した。
大拙師の最晩年の15年を秘書役として生活を共にし、
記念館の名誉館長である岡村美穂子さんが、
仏法の神髄が現れていると感じた大拙師のエピソードを紹介しながら、
枠のない自由な世界を語る。〉




兼六公園21世紀美術館の近くにあり、私も何度か訪れました。
「鈴木大拙館」













「人が信じられなくなりました。生きていることが空しいのです」
少女のこの訴えを聞いて、大拙はただ「そうか」と頷いた。
先生は私の手を取り、その掌を広げながら、
「きれいな手ではないか。よく見てごらん。仏の手だぞ」といわれた。




「この思索空間は維摩の方丈なんです」






「飛び込め!」と言われた。




「無」   (画面に電気の照明が・・・)




「夫婦げんかや、親子間の相談に訪れた人に、
『それはそれとして・・・』
と、口ぐせのようにおっしゃっていましたね」




教行信証』を英訳される(91歳)



安心決定の境地について




岡村美穂子さんに魅せられました。
秘書が語る大拙師にとても親しみが感じられ、うれしくなりました。


鈴木大拙館開館一周年記念行事が盛りだくさんで、
これからが楽しみです。


・・・・・
三人の女性と鈴木大拙(鈴木貞太郎) 上田閑照 著 より


「今は自分一人を残して親しい人々はいずれもこの世のものではない」、
その「残された自分一人」の大拙は、昭和24年6月から、一人で世界を旅し、米国内の諸大学を移動する。
八十歳を過ぎてからの「一人」は身にこたえるものがあったであろう。
「旅も何もかも、いつも一人」とある手紙の最後に書き添えている。
また「ひとりでは、なんだか物足りぬ、…。 年取ってからは、旅は、楽なものではない、何の因果かと思うこともあるが、しかし、やらねばならぬと思えば、なんでもない」。


このようにして「一人」を生き、世界の只中で働きつづける大拙に、
ニューヨークで彗星のように一人の少女が現れる。


その人こそ大拙の死まで秘書を務めた岡村美穂子さんでした。
この出逢いこそ、正真正銘の出逢いと呼ぶべきでしょう。


以後、大拙は生き生きと、明らかに生まれ変わったのでした。
その出会いについて、大拙の没後、岡村さん自身が書いている。


ニューヨークに住むハイスクールの一生徒、十四歳の少女が
「仏教のえらい先生が日本からおいでになって」
コロンビア大学で講義があるということを知り、
「どれ、聞いてみてやろう」と
「私も気負っていたのかもしれません」と彼女は言う 。


大勢の大学生や教師たちの間に忍び込み、大拙先生の現れるのを待っていた。
やがて教室の扉が開かれ、片手にこげ茶色の風呂敷包みをかかえた大拙
「風を切るような大股でサッサッと」教壇を目指してまっすぐに歩いてゆく。
教壇にのぼり、風呂敷包みを丁寧に広げ、
和綴じの本を二冊取り出して、その本をめくってゆく。


その大拙の現われにおける身体の動きに、彼女は
「いつわりを知らない他の生き物のしぐさ」を感じた。
「先生は、然るべき項を見つけると、静かな口調で話をはじめられました。
私は、その気品ある見事な英語に驚かされました。」
大拙(当時八十歳)の「仏教哲学」の講義が始まった。


講義の内容は十四歳の少女には難しかった。
しかし講義を理解する以上のことを感じ取っていた。
「いつわりを知らない他の生き物のしぐさ」と彼女は言う。
人間には大なり小なり自意識による歪みや澱みが生ずるものだが、
彼女が大拙に見たものは、身体化された真実の自然さである。
彼女はそれを見ることができた。


彼女は「先生が全身で示される大説法それ自体」の響きを聞いた。
大拙は、繕わず巧まないところに大いなるものが現れるという意味の居士号「大拙」の通りに、
その存在の現われをもって彼女を説得した。


彼女は、仏教も禅も知らず、素手で、それだけにより直接に大拙の存在の真実性を感じ取ったのである。
仏教界での大拙の連続講演も聞くようになった彼女は、
やがてコロンビア大学付属のホテルに住む大拙先生を訪ねるようになり、
大拙は彼女にとって次第に決定的になってゆく。


「人が信じられなくなりました。生きていることが空しいのです」。
少女のこの訴えを聞いて、大拙はただ「そうか」と頷いた。


「否定でも肯定でも、どちらでもない言葉だと思いました。
が、その一言から感じられる深い響きは、私のかたよっていた心に、
新たな衝撃を与えたのではないかと、今にして鮮明に思い出されます。
先生は私の手を取り、その掌を広げながら、


「きれいな手ではないか。よく見てごらん。仏の手だぞ」。


そういわれる先生の瞳は潤いをたたえていたのです。


私が先生の雑務のお手伝いをしながら、心の問題と取り組ませていただいたのは、このような環境でのことだったのです。


中略
1966年、大拙九十六歳の臨終のとき、
看護にかかりきりであったMihoko‐sanが、
"Sensei, would you like something?" と尋ねたのに答えた言葉は、
"No, nothing, thank you."。
まことに、生を尽くし、こがねを打ち延べたような九十六年のいのちが "No, nothing, thank you."という言葉となって、
端的に言えば「無」となり、
そしてその「無」が感謝しつつ芳しい風になって没してゆく。
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