颯爽と歩く

家の近くの浅野川歩道にホオジロ

午前中は晴れていたので、犀川までお散歩に。

コウライアイサ♀? カワアイサ♀かもしれません。


以前撮ったコウライアイサ♂


川岸にいたのはツグミ


コガモがたくさんいました。


手をつないだ年配のご夫婦が通り過ぎていきました。
カッコイイ!
颯爽と歩くお二人に見惚れました。

金沢翔子さんの新たな旅立ち

土曜夜のEテレは金沢翔子さんで、
とても素敵な番組でした。

いきいきとエネルギッシュに躍動する筆。
全身から生み出される自由でのびのびとした「書」。
金澤翔子さんは去年ニューヨーク国連本部に、
「世界ダウン症の日」日本代表として招待されました。

30歳となった翔子さんは、書家として成長したい一心で、
一緒に暮らしてきた母・泰子さんに一人暮らしを宣言。
泰子さんも自立を応援するため懸命に部屋探しを始めました。



娘と母 新たな旅立ち


金沢の個展で鑑賞した作品にも出会えました。




既に一人暮らしを始めた翔子さんです。


鎌倉円覚寺での、25kgの大筆を使っての「羯諦」の揮毫、圧巻でした。

写真、うまく撮れませんでした。

京都へ

五年前の旅行一日目、保津川下りの前日の記事、
こちらもすっかり忘れていたので、再度読めてよかったです。
私の場合、
自分が後で読み返すためにブログを書いているのだ、と思っています。

東本願寺 御影堂の屋根


こんな文章でした。
・・・・・
グループで、京都へ行ってきます。
今日は、東本願寺へ行きお参りします。

糸井重里    
   親鸞という人は、
   世間一般で言われていることとは
   逆のようなことばかりを
   例えば
   「善人なほもて往生をとぐ、
    いわんや悪人をや」
   ですから、親鸞の言っていることを
   もっと知りたいという気持ちが
   僕たちは、強くなっていく。

吉本隆明
   そうですね、
   親鸞は、言っていることがすべて
   知識的に、逆説のように見えるんです。
   
   例えば『歎異抄』の中で、唯円親鸞
   「我々は浄土教ですが、
   浄土というのは、
   死んでから行くことのできる
   安楽ないいところだといいます。
   しかし、私は急いでいきたいとは思わない。
   それは、なぜでしょうか」
   と質問した、という場面が出てきます。

   すると、親鸞
   「俺もそうなんだ」
   って、答えた。

糸井
   それは‥‥ものすごいことですね。

吉本  うん、すごいことなんです。

   弟子の唯円のほうも、坊さんなのに、よくも、
   「ちっとも浄土へ行きたい気がしない」なんて
   率直に言いますよね。
   たいへんな人だなと思うけども、
   親鸞は「俺もそうだ」って、さぁ、
   そいつはすごい。

   親鸞はどうして「俺もそうだ」と言ったのか。
   浄土があんなにもいいところだと、
   ちゃんとお経にも書いてあるのに、
   どうして行きたくないんだろうか。

   親鸞という人は、そのことについても
   答を即座に持っていました。

   親鸞は、生きているこの世は
   「煩悩の故郷」である、と言うんです。
   人間の煩悩は、いまいるこの世に
   執着を醸し出すものなんです。
   
   だから、煩悩ある人間にとっては、
   いくら「安楽な浄土だ」と言われても、
   そこへ行きたくない、この世にいたい、
   と思うのは、普通なんだよ、ということなのです。
   親鸞は、そういう言い方で
   弟子に即座に答えるわけです。

   こっちは、もう感心のしっぱなしです。
   うわぁ、すごいことを言う坊さんだ!
   まぁ、坊さんというか‥‥
                    (親鸞対談より)

なつかしの保津川下り

写真家のinuwanさんは、
ブログでいつも郷愁を誘う日本の原風景を紹介してくださいます。

保津川下りの船だまりでは、きちんと並んだ舟が春を待っていて
あまりの美しさに圧倒されました。

その時、すっかり忘れていた「私の保津川下り」を思い出したのです。
約5年前、恒例となっている20人ほどのグループでの小旅行でした。


その時の写真です


このように書かれていました。
・・・・・
グループ旅行2日目は、保津川下りでした。
深淵あり、激流あり、四季を映して流れる保津川の峡谷。
丹波の国「亀岡」から、京の名勝「嵐山」までの約16キロ、
2時間の自然と触れ合う船旅です。

猛暑の中、ここだけは涼しい風が吹いていました。
気持ちよかったです!!

昨日参拝した東本願寺で、次の言葉に出会いました。

『亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている』
・・・・・

inuwanさんのおかげで、過去記事に出会えてうれしかったです。

下駄が汚れているのは

毎年一度、近くのお寺で松本梶丸師のお話をお聞きしたことがあります。
どのお話も、わたしのことだなあとうなずくばかりでした。


   悩むというのは
   自覚である
   悩まされるというのは
   無自覚である          (曽我量深) 

 悩むというのはもっとも人間らしい尊い姿である。
しかし、現実はほとんど悩まされているのではないだろうか。
悩まされている時は、愚痴や悪口や人を責める世界しかないからである。
そうである限り、永劫(ようごう)に立ち上がっていくことはできない。

「新しい下駄をはくと、下駄の表面がすぐ黒く汚れてしまう。
それを布巾でふけば、すぐ汚れがとれてきれいになります。
でも、はいているうちにまたすぐ汚れてしまう。
なぜ下駄の表面が汚れるかというと、自分の足の裏が黒く汚れているからです。
どれだけ下駄をふいても、まっ黒な足の裏をしていれば、すぐ汚れてしまう」。

曽我量深先生のお言葉である。
こんなことは、理知では分かりきったことである。
しかし、人間というものは、下駄の汚れの原因は自分の足の裏が汚れているからだ、ということに容易に気づかない存在である。
〝愚か〟とも〝無明〟とも言われるゆえんであろう。

それに気づかない間は結局、下駄をふきつづける生活でしかない。
私たちの日常は、下駄をふきつづけている生活ではないだろうか。
「自分の足の汚れに気づいた人を目覚めた人、
下駄の汚れの原因が自分の足にあると気づかない人を不平不満の人」
と、曽我量深先生は言葉を継がれる。

 「ああ、下駄の汚れの原因は自分の足の裏が汚れていたからだなあ」
と気づかされたときに、いのちの体温が通う。
その時に、悩まされる世界から悩む世界に転ずるのであろう。
悩みがなくなるのでも、解決するのでもない。
真に主体的に悩んでいける自分が誕生する。

つまり、限りなく問うべき課題が生まれてくるということだ。
信仰とはそういう歩みをたまわることである。
だが、それは、人間の知恵や眼からは毛頭見つかってこない。
そこに教えを聞くということの一大事がある。
満ち足りた現実社会の中で、人間が忘れている一大事である。   

         松本梶丸著『生命の見える時 一期一会』(中日新聞本社)より

お靴はけばいいのにね

今朝は快晴  家の前に山側環状の三つ目トンネルがあって


こちら側が浅野川の上流


歩いて10分、トンネルを抜けると犀川の上流にでます。
街の中では遠く隔たっている二つの流れも上流で接近していて、
昨日は犀川、今日浅野川という風に、よく川べりを歩きます。

川面に吹く風に変わりはなく、春が感じられます。


隣の保育園の“つぶやき集”から

雪の中を散歩している犬を見て、
   「足冷たくないのかな?
    お靴はけばいいのにね」
                              (3歳児)


バレンタインの日、
保育園の先生からチョコをもらってきた我が子に  
   「うわあ〜!!いいなあ〜!!
    おとうさん 会社に女の子いないから、ことしは一個もないわ〜」
   「おとうさんの会社 女の子いないがあ?
    でも、せんせいは いるんでしょ??」
                               (4歳児)

能登の海は冬景色

先日はご近所仲間と日帰りで里山の温泉に行ってきたばかりですが、
今回は夫の希望で七尾湾に面した和倉温泉でした。
車は控えて電車で1時間、何度も来ています。
おしゃれでシンプル、女性に人気な宿が気にいっています。

冬空と能登島大橋


カモメ




能登島大橋の反対側にツインブリッジがかすんで見えました。


高校までこの近く、海のそばで暮らしました。
以前、ツインブリッジを近くで撮ったものです。

郁ちゃん
あなたも海が大好きでしたね。