「我が子の死」

       彦三緑地のぼたん  5月中頃 
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金沢ゆかりの偉大な思想家西田幾太郎と鈴木大拙
二人は金沢の第四高等学校で同級生であり、殊に人生の後半は親しく付き合っていました。


西田幾多郎
「我が子の死」について書いてあるのが偶然目に入りました。
子を失った親の気持ち、
読んでいると、そこにいたのは私そのものでした。
最後は次のように書かれていて、
「ああ、本当にそうだったなあ」と心に沁みるのでした。


―我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、
心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。
歎異抄』に
「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
といえる尊き信念の面影をも窺うを得て、無限の新生命に接することができる。―




「我が子の死」(抜粋)
・・・・・
骨肉の情いずれ疎なるはなけれども、特に親子の情は格別である、
余はこの度、生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。
余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。
君の亡くされたのは君の初子であった、初子は親の愛を専らにするが世の常である。
特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。
情濃やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。
亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、
ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。
これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。
女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない。


ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった、氏はこれに答えて
“How can I love another Child? What I want is Sonia.”
といったということがある。
親の愛は実に純粋である、その間一毫も利害得失の念を挟む余地はない。
ただ亡児の俤を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。
若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。


しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。
人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。
時はすべての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。
何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。


昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった、今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。
この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
・・・・・


・・・・・
最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。
あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。
運命は外から働くばかりでなく内からも働く。
我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。
我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、
心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。


歎異抄』に
「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
といえる尊き信念の面影をも窺うを得て、無限の新生命に接することができる。
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石川県西田幾多郎記念哲学館     
〜人間西田幾多郎〜より


「私の生涯は極めて簡単なものであった。
その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。
黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きるのである」
これは、西田幾多郎京都大学を退官するときに述べた言葉です。
かほく、金沢で学び、金沢、京都で教鞭をとり、晩年は鎌倉で思索と執筆に明け暮れたその一生は、一見分かりやすい人生だといえるかもしれません。しかし、その75年の生涯をつぶさに見ていくと、苦難と悲哀の重なりがあり、思索の苦闘があり、様々な人との出会いがありました。
西田の人生は、生きることがそのまま思索でもあるような歩みでした。



安藤忠雄氏設計の哲学館、開館10周年を迎えました。
かほく市なので、ちょっと足が遠のいていました。
近いうちに行きたいです。