「氷多きに水多し」

浅野川上流 家の近くの梨畑が向こうに見えます。 


氷点下の朝は、バケツに入っていた水が凍っています。
その氷も暖かいぽかぽか陽気になれば、やがて解けて水になるのです。

念仏の人であった亡き義父のところへは、
近所のおばあちゃんたちがよく集まってきていました。
何もわからない、若かりし頃の私の耳によく入ってきたのが、
「氷おおきに水おおし さわりおおきに徳おおし、やね」、
とのおばあちゃんたちの会話でした。

親鸞聖人の『高僧和讃』「曇鸞讃」にあるのだと教えらえれたのは、
ずっと後のことです。
      
「罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる
 氷と水のごとくにて
 氷おおきに水おおし さわりおおきに徳おおし」

氷が解けて水になるということは、煩悩がそのまま菩提になるということで、
煩悩を離れて菩提はないし、
菩提は煩悩と体ひとつだということになります。

また、煩悩の氷が多ければ多いだけ、解けた水も多くなる。
氷の分量と水の分量が比例するということです。
このような関係を思ってみますと、
煩悩が起こっている私のところにこそ、阿弥陀さまのはたらく場がある、
その徳に気づいていくことができるというのが親鸞聖人の教えなのですね。