清沢満之の言葉

カラスがご縁となって出会わせていただいた暁烏敏師の「明達寺」です。
近隣の白山市にあります。


お寺に掲げられた、敏自筆の扁額です。
「汝自當知(なんじみずからをまさにしるべし)」


法隆寺の夢殿を模して作られた臘扇堂(ろうせんどう)


ここには、暁烏敏生涯の師「清沢満之」の像と、
脇侍として合掌する自身の像を安置してあります。

     写真はいしかわ19ネットより


1954年(昭和29年)8月20日喜寿記念の臘扇堂が完成、
落慶法要を営みます。27日敏死去、満77歳でした。


私のために書いてくださったような全休さんのブログは、
清沢満之の言葉でした
     われらが無我になるには造作はいらない
     そのままに安住するのが無我になることである


引用させていただきました。
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 「仏法は無我にて候。」 
  自己の少欲小我を滅して、
  如来の大願、如来の大心に帰入せよとは釈尊一代の説教であり、
  龍樹、天親その他の高僧知識の教えはこれ以外にない。
  ひとり仏教だけでない、
  この生活世界に処して自由と平和と満足の生活をする法は、
  この無我以外にはないのである。
  この無我ということは、
  われらがいまあらためてそうしなければならないことではなくて、
  われらの本来の姿が無我のものであって、
  諸法無我とは不動の法則であり、不変の真理である。
  われらが無我になるには造作はいらない。
  そのままに安住するのが無我になることである。
              (今村仁司訳『清沢満之語録』372ページ)


村田和上と同じ明治の人、清沢満之の言葉です。
仏法の端的、「無我」ということが明らかです。
わたしたちは、この世界の出来事を<理屈>という色メガネ越しに見ているために、傲慢にも、心に受け入れられない現実を
「理屈に合わない」と否定してみせたりします。
しかし、それは逆さまで、人間のちっぽけな尺度、理屈、思いに収まる現実などないと知るべきでしょう。
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