いずれの行もおよびがたき身なれば

親しい聞法仲間と、京都東本願寺 報恩講参拝に行ってきます。
親鸞聖人にお遇いしてきます。

御遠忌法要厳修中の御影堂(ごえいどう)

                2011年5月25日

近くのお寺の報恩講で、お聞きしたばかりです。

『歎異抄』第二章より  
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親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもって存知せざるなり。

たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう。

そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、
念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、
すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。

いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
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〈意訳〉
親鸞においては、ただ念仏して、阿弥陀さまにおたすけいただくがよいという、
よき人のお言葉をいただき、そのお言葉を信じているのであって、
別にこれといういわれがあるわけではありません。
 
念仏は、まことに浄土にうまれるたねでありましょうか、
また地獄におちる業でありましょうか。
まったく分からないというほかありません。

たとえ、法然聖人にだまされ、念仏したことから地獄におちたとしても、
わたしはいまさら後悔することはないと思っています。

それといいますのは、他の行をはげんで、仏になるはずの身が、
念仏をもうして、地獄におちたというのであれば、
だまされたという後悔もありましょう。

いずれの行もかないがたい身であれば、
地獄こそがまさにわたしの定められた住処となるに違いないのです。
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