「日ごろの心」が教えられる

毎年東別院で始まる夏季公開仏教講座『聞』、
7・8月の9と10のつく日に合計12回行われます。
行けたり、行けなかったり・・・今年は何回お聞きできるでしょうか。

初回は三重県正寶寺住職 藤本愛吉師

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阿弥陀さまのはたらきは、
「えらばず・きらわず・みすてず」であると教えられます。
親鸞聖人がなぜ「真実は阿弥陀如来の御こころなり」とおっしゃったのか。
私たちの「日ごろの心」はそうさせないものを持っているからですね。

私は近年脳疾患で倒れ、後遺症が残っていて右手がまだうまく使えません。
歩き方も足を引きずっています。
あるとき我が家にやってきた1歳半の孫の歩き方が変だった。
肩を下げてはピョコピョコと足を引きずって歩いていた。

「おい、あの子なんか歩き方変だぞ!」
と娘に言ったら、
「家では普通に歩いているよ。
あれはね、おじいちゃんの歩く姿なんだよ」って。

こんな風に自分では自分の姿が見えないのが人間なんです。
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仏に遇われた“よき人”に出会うことの大切さも語られたのですが、
その中に故・松本梶丸師(石川県)のお名前もありました。
私も松本梶丸師から直接お聞きしたことがあるお話を、
藤本愛吉師が別の場所で引用されていたのを思い出しました。

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ご法事に行ったときのことです。
このごろはそういう家がほとんどなくなりましたが、農家は田の字作りといって、ふすまを全部外すと聞法の場になるんです。
その家もそういう形を持っている数少ない家の一つです。
そのうえ、この家の自慢の庭があるんです。
 法事の日に少し早めに行って、ここの家のおばあちゃんと外縁(そとのき)に座ってお茶をいただいていたわけです。
庭の隅には大きなケヤキの木が茂っていて、苔むした庭に実に美しい木漏れ日による光と影を作るんですね。
だから私はこの庭にケヤキが一本あることで結構だなと思っていたんです。
それで「この庭にこのケヤキが一本あることで結構やね」とほめんたんです。
 
 そしたらおばあちゃんは途端に機嫌が悪くなりました。
「何が結構なこっちゃ。今朝もご法事やと思うて、朝4時に起きて掃除した。
ところが、あれを見なさい。
わしは秋になると、今年こそ切ろうかと思うとる。
このケヤキ一本のために業(ごう)わいて、業わいて」

 しかし、私は思いだしたのです。
7月の初めにその家に用事があって行ったことがあったのです。
そしたら、このおばあちゃんは私に
「このケヤキ一本あるおかげで、一夏暑さ知らずや」と言ったのです。
人間というのは身勝手なもんですね。
 ある時は、「このケヤキ一本あるために、業わいて、業わいて」、
またある時には「このケヤキ一本あるおかげで」と。
これ、悪いわけではありません。
人間の煩悩の所為です。
「おばあちゃんはそう言えば、「夏はこのケヤキ一本あるおかげで」と言うとったんやないか。
それがどうして今は「このケヤキ一本あるために」となるのかな」と聞いたら、おばあちゃんは「あん時はあん時、今は今や」と。
                           (松本梶丸)
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藤本師は引用の後、このように言っておられます。

私たちが仏さまの教えを聞いていると、
どこに問題があるかがわかるようになります。
なぜ一緒に暮らしている家族が言葉が通じないような地獄を作るのか。
なぜ自然に生きているケヤキが、おばあちゃんの都合で夏はありがたい、
冬は業わいてと、そういう心になってくるのか。
それは煩悩のせいだと。
私たちが煩悩という、自分を中心に物事を見ている目がある限り、
条件によって心はころころ変わりますよと、
仏さまは教えてくれているんですね。