どこまでも見捨てないこの母の姿

     神様がたった一度だけ
     この腕を動かして下さるとしたら
     母の肩をたたかせてもらおう
     
     風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら
     そんな日が本当に来るような気がした

                      (星野富弘・ぺんぺん草)

前回の夏季公開仏教講座「聞」は、
南砺市真教寺住職 馬川透師でした。

前半が、「白骨のお文」「若き敦盛」の薩摩琵琶弾き語りで、
皆さん熱心に聴き入っておられました。

後半の法話は、親鸞聖人晩年の御和讃、
「悪性さらにやめがたし、こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」
についてでした。

親鸞聖人は自分のこころは蛇(ヘビ)・蝎(サソリ)の如きであると悲しまれておられます。
馬川師はつい最近、群馬県星野富弘美術館を訪れたそうですが、
星野富弘さんも自分をそのように思われたのではないか」、
とおっしゃいました。

そして、星野富弘著・「愛・深き淵より」
次の場面を引用されました。

・・・・・
手が動かないので食事はいつも母があおむけに寝たままの自分の口に入れる。
気分が悪く、食べたくない食事の時に、
母の手元がふるえてスプーンの汁を顔の上にこぼしてしまった。
イライラ状態だった自分は爆発してしまい、怒りを母にぶつけた。
口の中のご飯を母の顔にむけて吐き出し、どなってしまった。

しかし、母は涙をふきながらしばらく黙っていたが、
顔のまわりにハエが飛び回ったとき、
母は片方にははえたたきをにぎっているのに、
もう片方の手でハエをたたくというより、
そっとさわるように顔をおさえてくれた。

ハエは逃げてしまったが、母のしめった手のぬくもりが残り、
やわらかな母の感触が体じゅうに広がった。
・・・・・
              
あれだけ悪態をついた自分を、“何処までも見捨てない”この母の姿こそが、
阿弥陀さまの「摂取不捨」(せっしゅふしゃ)ではないかと、
馬川師は話されました。